すっかり肌寒くなり、今年何度目かの風邪をひいた。顔が痛い。
iPhoneを新しくしてから「写真撮って」といわれることが多くなった。とはいえ、写真を撮らせてくれるのはほんの一瞬で、次の瞬間に目線はよそを向いている。その一瞬に照準を合わせるのは難しいけど、できるだけ逃したくないと思いながら撮っている。
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今年の夏以降、怖いものを求め続け、怪談を聞き狂っている。世間的にも、怪談ブームが来ているのではないだろうか。全国各地で毎週のように怪談イベントが行われている。今年8月に開催されたOKOWA決勝戦で中山功太が語った怪談には、考えさせられるものがあった。
恐い話のチャンピオン決定!『OKOWAチャンピオンシップ2019 決勝戦』
※中山功太の怪談は3:18:05〜
私たちは何のために怪談を語り、そして聞くのか。怪談を語るとき、それは誰に捧げられるべきなのか。中山功太の怪談は、目の前の観客というより、むしろ亡くなった友人に向けて語られているようだった。怪談として死者のことを思い出すこともまた、新たな弔いのかたちであり、生者の悲しみの整理手法として怪談が用いられることがあってもいいのかもしれない、と思った。
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先日、ニコニコ動画内で放送された番組『大島てる×松原タニシの事故物件ラボ』の中で、大島てる(※)氏が興味深い貼り紙を紹介していた。
※事故物件公示サイト『大島てる』管理人
社会問題で話題になった事故物件!大島てる×松原タニシの事故物件ラボ第1部
問題の貼り紙はこちら。
やや読みづらいので文字に起こしてみる。
「関係各位
献花台について
故人に対し、謹んで哀悼の意を表します。
お亡くなりになってから四十九日も過ぎ、近隣の皆様のご厚意による今後の献花については、故人の菩提寺の方にお供え頂きたくお願い申し上げます。
理由
ビルとしての共有部分でもあるこの場所において、永続的に弔い続ける事は故人に対して礼を欠くことになる為。」
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もちろん、この貼り紙には意図がある。献花台があるということは、その場所で「何か」があったことが明白になってしまい、業務や集客に支障が出るため、献花をやめてほしい、というものだ。その意図を隠すために、「永続的に弔い続ける事は故人に対して礼を欠くことになる為」といった理由を謳うのはいかがなものか、と思うのだが、それはさておき。
果たして、永続的に弔い続けることは危険なことだろうか。私は、弔うことには快感という危険が潜んでいると思う。幸せにならない登場人物や叶わない恋を応援するのは楽だ。不幸に寄り添うことにはある種の快感があり、予定調和に対する安心感もある。弔い続けることは、叶わないと分かっている片思いに似ている。
それに対して、生きるのは本当にしんどい。日々老いていく自分や他人と向き合わなくてはいけないし、風邪も引くし、幸せになれるかなど分からないし、そもそも幸せって何なのかも見失いつつあるし。まぁ、しんどいけど、楽しいこともある。怪談を聞いた後にその場にいる人と話すのは本当に楽しい。生きているという現実に直面する。だからこそ、弔いと生は一対であるべきだと思う。
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生きてたら何かいいことあったらいいな〜〜。
おやすみなさい。
Oた